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来週日曜日は久しぶりの講話。テーマは「幸せな生き方」です。

来週日曜日 8月5日午後1時から、久々に、講話いたします!ど​なたでも、ご参加自由!暑い日が続きますが、心も体も元気になる​お話を!どうぞ、お時間ある方、ぜひどうぞ!
詳細はこちら↓

日時;来週日曜日、8月5日 午後1時~2時30分
場所:原宿駅下車 竹下口から徒歩5分 生長の家本部南館2階 
テーマ;幸せな生き方 (映画のタイトルみたいだな、これ・・・​・・)

 「われわれは、人間として生まれてきた以上、幸福に暮らしたい​。これは人間として、本能的にもっている欲望である。しかし人生​はそんなに幸福な人ばかりで充たされていない。それはどうしたわ​けであろうか。その一つは彼らが「心の法則」を知らないこと、そ​の二つは幸福とはなんぞやということを知らないからである。・・​」
谷口雅春・生長の家創始者著『生命の實相』第7巻生活篇より。

 本当の幸せって、なんでしょうか?どうしたら毎日幸福だな、っ​て思えるんでしょうか?その秘訣が上の文章の2つのポイント。震​災、原発事故、再稼働・・・私たちの生活と価値観を見直す重要な​この時期に、「幸せ」について、考えてみましょう。

皆様のお越しをお待ちしております!
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テーマ : 心と幸せ - ジャンル : 心と身体

tag : 感謝 体験 原発 自然 真理 講話

生長の家は、あたりまえのこと言っている?

 私は現在、生長の家本部に勤務し、また本部講師として、
その教えをお伝えする役目もいただいているが、
時折、「生長の家って、どんな教えですか?」と聞かれる。

 どんな、と言っても、一言で言うわけにもいかないが、
教えの基本的な部分を、できるだけわかりやすく説明しようとする。

 そんな時に思い出すのが、かつて私が、京都府宇治市にある
生長の家宇治別格本山に勤務していた時のことだ。

 私は、会社から派遣された、社員のための研修会の担当をしていた。
 宇治では、毎月、生長の家の教えを合宿形式で学び、実践する練成会というのが開かれている。
これは、主に、生長の家をよく知っていて、さらに深めたいという人や、
あまり知らないが、自分の問題や病気を解決したくて、求めてやってくる人が参加している。

 その練成会と、ほぼ同じ内容だが、10日間の練成会が終わった後に、「能力開発研修会」という研修会がある。
名前は、一般的にわかりやすくするために、こういう名前だが、練成会と同じことをする。

 大きな違いは、参加者が、求めて、好んで、積極的な気持ちで、来ているわけではない!ということだ。

 会社や、社長が、生長の家をよく知っていて、その教えが素晴らしく、人生や仕事にも生かせる、ということで、社員の研修として、会社がお金を払って社員を派遣する。

 社員たちは、内容をよく知らされずに来る人が多く、寺で修行か、はたまた怪しげな洗脳か、という気持ちで、
不安感と、警戒心いっぱいでやって来る。

 新入社員も多く、若い人が多かったが(その頃は私も若かったが)、
何しろ皆、何も知らず、しかもいやいや、恐る恐る来ているので、最初から聞く気持ちがあまりない。
 そんな人たちには、興味をひく内容を提供しながら、できるだけわかりやすく、
難しい言葉を使わずに、説明しないと、拒絶反応がひどくて、
かえって逆効果になって、やっぱり怪しいところだった、となってしまうのだ。

 これでは、せっかく、社員の心の修養のために、とお金と時間をかけて派遣してくださった会社に申し訳ないし、何より、せっかくのご縁で、家族と離れて研修を受けに来た人たちに、
何も得るものがないまま、帰ってもらうのも、残念でならない。
 ちょっとでも理解してもらうとか、会員になってもらうとか、そんなことじゃなく、
せっかく来たのだから、何か少しでも、今後の人生や、仕事、家庭生活を幸せに過ごすヒケツを、
一つでも二つでも、持って帰ってもらえたら、そんなことを思って、
 とにかく、わかりやすい言葉で、説明することを試みた。

 最初はガチガチで、不信感いっぱいだった参加者も、2,3日経つと、
心がほぐれてくる。
 別に、洗脳でも、何でもなく、厳しい修行もなく、
ただお話を聞き、皆と語り合い、規則正しく生活するだけだ、ということがわかってくる。

 そうして、お話を聴いているうちに、参加者たちは、私に言うのだ。

「あのさ、最初は洗脳されるんじゃないかと思って、不安いっぱいで聴いていたんだけど、
聴いていると、なんか当たり前のことを言ってるんだよね?」

「え?あ、はい・・・・・・・」

そのとおりだ!
 
当たり前のことを言っているんだ、正解だ!

例えば、当時の初日に、私が担当していた研修は

「笑うって、本当に健康にも、日々の生活にも、周囲にも、とてもいいですよ!」
「早起きって、いいですよお!朝はとてもすばらしい時間です!」

 これなら、誰だって異論はないだろう。雑誌で特集が組まれることもある。
というか、このことなら、誰でも、そのとおりだと思うだろう。


次の日は、
「明るくしていると、気分がいいですよ!そして明るいものが集まってきますよ!」
「親に感謝することって大事ですよ」

 学校の道徳の時間に聞いたことがあるだろう。これだって、言わなくてもわかっているわ、という人がいるぐらいだろう。

 3日目には
「人には意地悪ではなく、親切をしてあげましょう」

 おっしゃるとおりだ!小学生のわりと早い時期に、先生にも両親にも、近所のおじさん、おばさんにも言われたことがあるだろう。

 4日目は
「みんな、それぞれ個性があって、どれもすばらしいんですよ」

 これも、そう感じ、学校の先生がそう言ったことがあるかもしれない。

 研修に来て、参加者が聴く話は、わかりやすく言うと、このようなことなのだ。

 そうなのだ!そのとおりなのだ!「当たり前」なのだ!
 
 では、わざわざ時間とお金を使って、研修に行かなくてもいいではないか、と思われるかもしれない。

 しかし、ここが問題だ。

 「当たり前」だ!とわかったことは、それはそれで素晴らしい。

 しかし、ではその「当たり前」を、「当たり前」に、実践しているか、というとどうだろう?

 わかっているのと、実践しているのとは別だ。
 つまり、実践してこそ、本当の幸福が得られる。

 それは、どの材料をどれだけ入れたら、こんなに美味しいカレーができあがる、と知識でわかっていても、
それを実際に作ってみて、味わってみないと、「おいしいいいい!」という実感はわかないだろう。

 わかっているのと、実践しているのとでは大違いなのだ。


禅宗第一の書と言われる「無門関」を解説した書『無門関解釈』。(生長の家創始者・谷口雅春先生著)
その第七則に「趙州洗鉢」という考案がある。

ここでは、僧が修行する道場に、新しく入ってきた僧が、趙州和尚に尋ねるのである。
「わたくしは新しく入ったものです。勝手がわからないものですから、どうぞご指導よろしくお願いします」
これに対し趙州和尚は
「おかゆはもう食べたか?まだか?」と聞く。
僧は「はい、食べました」と答える。
趙州和尚はそれを聞いて
「そうか、おかゆを食べたら、茶碗を洗って来い」
ただそれだけ言ったのだった。それで、新しい僧は「ハッ」としたと、そういう話だ。

なんて、当たり前な話だ!
これなど、誰もが経験したことがあるのではないか?
例えばお母さんが、
「食べ終わったら、自分のものは自分で片付けなさい!」なんて言われたことがあるだろう。
こんな当たり前の話が、禅宗第一の書に書かれているのだ。
しかし、この「当たり前」のことを「当たり前」に行う、ということの中に、
偉大なる真理がかくされている。
 幸福に過ごす、人生を成功する、秘訣がある。


このことについて『無門関解釈』にはこう書かれている。
無門関解釈無門関解釈
(2001/01)
谷口 雅春

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ただそれだけの事である。当たり前のことが当たり前に出来るのが悟りである。
『大蔵経』を全て読破し、その字義に精通し、少しでもその解釈が仏教上のそれに相違するからとて、
玄人めかしく他を軽蔑したり誹謗するようなのが悟ではないのである。道場に精勤して先師の講義を聴き、
「悟った、悟った」などと思い上がりながら、家事は放置し、部屋の掃除も出来ていないようなのが悟ではない。
悟りと云うのはどこか天上にでも遠くにあるのではない。「此処」に「今」あるのである。
 (同書 P78)



実は、当たり前のことを当たり前にする、ということはすごいことなのだ。
それをせずに、自分でこの人生に雲をこしらえ、霧を発生させて、
見えない、見えない、暗い、暗いと言っている人が多い。

ご飯食べて、お茶碗を洗う・・・このような些細なことが大事なのだ。

当たり前だとわかっていながらも、それとまったく逆の生活をしていたりする。
だから、壁にぶち当たる。

でも、あらためて「当たり前」のことを言われてみると、はっと気がつく。
いかに自分が当たり前から離れていたか。

ではどうしたら、その「当たり前」に戻って、実践できるか。
そのことをお伝えして、「当たり前」が出来ることの道筋を立てるお手伝いができれば、
そう思って、ブログを書き、お話をしています。

 自分自身も、また、気づかないうちにはずれることもあり、
さっき引用部分に襟を正し、また学んで、実践して、精進していこうと思います。
 

テーマ : 伝えたいこと - ジャンル : 日記

tag : 日常 信仰 生活 あたりまえ 感謝

人の生命に思う・・・。久遠いのちの歌

先日の東日本大震災で被災され、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、
わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体となり、
被災された方々の苦悩が除かれ楽が与えられ、
自然との大調和のうちに復興が進められるよう祈念いたします




今日は春分の日。
お彼岸。
私の勤務する生長の家本部では、春季慰霊祭が行われた。
毎年、秋分の日と、春分の日に、人類のためにこの教えを広めようと尽くされ、亡くなられた方の供養を行うのだ。

 その時に聖歌隊が歌を唄う。
 
 今回ほど、その歌が心に響いたことはなかった。
その歌は「久遠いのちの歌」
 涙が流れて止まらなかった。


 これは生長の家のお経である、聖経四部経にも収録されているが、内容は仏教のお経「維摩経」の真髄を、
現代文で歌った歌だ。

はじめは哀しげなメロディーで歌われる。

==================


是の身はにじの如し にじは久しく立つ能わず 須ゆにして消ゆ

是の身は泡の如し  泡は久しく立つ能わず 須ゆにして消ゆ

(略)・・・・・・・・

この身は生命なし 旋風に舞う樹の葉の如く、唯業力に転ぜらる

(略)・・・・・・・・

是の身は無常なり、堅固なりと見ゆれども、必ずや当に死すべき時臨らん。

(略)・・・・・・・・

=================

ああ、なんて虚しいことだろう。我が身は、いくら健康だ、頑丈だと思っても、たちまち消えていく、まるで泡のように・・・そして必ず死ぬときがやってくる・・・・

脳裏には、テレビに映し出された、先日の大地震の被災地が浮かぶ。
それぞれが、生活があった。それぞれに人生があった。
皆、大切な人がいて、皆、大切なものがあって、
夢や、希望や、楽しみや、生き甲斐を持って生きていた・・・。

街の半分の人口が、いまだに行方不明だという。
あっという間に、そこにあったものが、なくなってしまったのだ。

この世の無常を感じる時である・・・。

しかし、「久遠いのちの歌」は、哀しげのメロディーから一転、男性の力強い語りに変わる。

================

泡の如く、にじの如く、
幻の如く、響きの如く、
過ぎ去るものは実在に非ず。

汝ら実在に非ざるものを、『我』なりと云うべからず、
当にこれを『我』と云うべからず。

=================

そのような、消えゆくもの、過ぎ去るもの、頼りないものは自分ではない、というのだ。

ここから、曲調が一転し、明るくなる

================

法身こそ応に(まさに)『我』なり。
仏身こそ応に『我』なり。
金剛身こそ応に『我』なり。

不壊なるものこそ 応に『我』なり。
死せざるものこそ 応に『我』なり。
尽十方に満つるものこそ 応に『我』なり。

================

本当の自分は死ぬような存在ではない、
くずれるようなものではない

肉体と思われるその奥に、本当の自分があるのだ、と説く。

この歌を、亡くなった方々にぜひ聴かせてあげたい、そう思った。
またご家族が、友人が、親しき人が、亡くなった方々に、聴かせてあげたい、そう思った。

「人間はいつか死ぬから」とかいう、そんな慰めではない。

肉体がなくなっても、生命は生き続ける。
当たり前の日常の中で、あまりにも自然すぎて、忘れてしまっているけど、
仏壇に手を合わせては、亡くなったおばあちゃんに語りかけ、
人生の転機には、あの世に先に逝った家族が、ご先祖様が、守ってくれると確信を持ち、
お墓を大切にし、思い出を大切にしている。
みんな知っている。肉体がなくなっても生命があり続けることを。

裁・谷口雅宣先生は、今回の震災で先に旅立たれた方々を
観世音菩薩であると、「自然と人間の大調和を観ずる祈り」の中で、
説かれている。
http://www.masanobutaniguchi.com/私たちに尊いことを教えてくださっているのだ。

被災地では、今も避難所などで、不自由な生活を送られている方々がたくさんいる。
しかし、そんな生活の中でも、食事が届けば、「ありがとう」と涙され、
「生きているだけでありがたい」と笑顔を見せ、
「必ず復興します!」と力強く話される。

 先に旅立たれた方は、そんな方々のご家族なのだ。
 皆きっと、霊界に行かれても、今避難所で生活をされている方々と同様、
「必ず復興します!」「また再スタートを切ります」
「またみんなが喜ぶようにがんばります」とおっしゃることだろう。

被災地の方々から光を受けているのは私たちの方だ。
そして先に旅立たれた方々は、肉体を無くして私たちに尊いことを教えてくださっているのだ。

これからが大切だ。
日本が、人類全体が、どのような社会を作るのか。
便利さと欲望の上に立ち、誰かに犠牲を強いている社会。
人間だけが楽を得て、他の生命に犠牲を強いている社会。

いよいよ転換の時が来ている。

これから、被災地の方々と心をつなぎ、そしてまた、先に霊界へと旅立たれた方とも心一つに、
これからの日本を、世界を、より素晴らしいものにしていきたいと願わずにはいられない。




テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

久しぶりに講話します。

 1月30日 日曜日
 東京・原宿 生長の家本部 南館
 「日曜大誌友会」 午後1時~2時30分
 に
 「喜びあふれる生活を送るために」と題して、
 講話をさせていただきます。

 テキストは生長の家総裁・谷口雅宣先生著『太陽はいつも輝いている』
      生長の家創始者・谷口雅春先生著『生命の實相』第14巻
      ※第7巻も使用させていただきます。


 どこか特別の場所へ行ったり、特別な時間を持たなければ、喜べない、満足できない、癒されない・・・

 でも、特別な場所や特別な時間は、普段の生活では、ほとんどありません。
 
 私たちの生活のほとんどを占めるのが、日常生活です。

 その日常生活を、いつも同じことの繰り返し、無色透明やちょっとグレーがかった生活にするか、
それとも、毎日が感動と喜びにあふれる、幸福な色とりどりの生活にするか、そのカギは、実は自分自身が握っています。

 そのカギは、実はそんなに難しいことではありません。
 厳しい修行や、難しい試験を通過しないと、そのカギが見つからないようでは、幸福な生活を送るのは、ほんの一握りの人になってしまいます。

 誰でも見つけることができ、そして日常生活が喜びあふれる生活になる、
 そして、それは自分自身だけでなく、身近な周囲の人たちも、また、世界中の人たちも、人だけでなく、すべての生命が幸福になれる、そんな生き方があることを、生長の家は教えてくれています。

 今回の講話では、そんなお話をしたいと思っています。

 

明日は久しぶりに講話します。

明日、11月27日土曜日 午前10時30分~12時まで、原宿・生長の家本部南館の「聖典講義」で、
久しぶりに講話します。

 前部署・青年会中央部最後の出張だった6月以来、5ヵ月ぶりの講話です。
 
 タイトルは「自分が変われば世界が変わる」
 テキストは生長の家総裁・谷口雅宣先生著『日々の祈り』です。

 このブログで書きつづっている自分の体験、今年、普及誌『いのちの環』NO.4の信仰エッセイで掲載された体験、そして、私たち一人一人の意識、取り組みが、地球や世界を大きく変えていくということについて、
お話させていただこうと思っています。

 

テーマ : 日記 - ジャンル : 日記

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